昭和10年代の妙正寺川近辺の風景

昭和36年頃まで、現在の鷺宮駅踏切脇にある妙正寺川に架かる八幡橋から西の方角を望むと、水田が広がるのどかな風景の向こうに、富士山が見えるという牧歌的な準農村地帯が広がっていました。
この水田地帯の南側に続く高台一帯が、現在の白鷺町会(旧・鷺宮二丁目町会)の区域にあたります。現在も、かつての面影を残す天神山や、屋敷林に囲まれた農家風の住宅が点在しています。
しかし、昭和36年から40年にかけて、妙正寺川沿いの水田地帯には次々と集合住宅が建設され、また昭和38年の妙正寺川氾濫による大水害を契機として護岸工事が進められた結果、地域に残っていた牧歌的な雰囲気は姿を消し、急速に都市化が進みました。
令和6年4月現在、地域にはおよそ4,863世帯、9,003人が暮らす住宅地となっています。しかし、住民の高齢化や世代交代が進み、土地の細分化や集合住宅の増加に伴って、他地域からの転入者が増加したことで、かつてのような地域住民の連帯意識は徐々に希薄になりつつあります。
そのような中、平成23年3月に発生した東日本大震災を契機として、地域の「絆」や「助け合い」の大切さが改めて強く意識されるようになりました。
同年秋に竣工した「白鷺町会ふれあい館」は、安心・安全なまちづくりの拠点としてだけでなく、地域住民が豊かさとゆとりを感じられるようなまちづくりを目指す、活発な活動の場として重要な役割を担っています。

白鷺町会の沿革

当町会は、昭和10年ごろに創立された旧・鷺宮二丁目町会を継承したものであり、昭和40年の住居表示法の施行により、旧・鷺宮二丁目が中杉通りを境に「白鷺一丁目」と「白鷺二丁目」の二地区に地番変更されたことを受けて、「白鷺町会」と名称を変更しました。
町会の地域は妙正寺川の南側に位置し、かつては川沿いの地域の多くが水田で、さらにその南に広がる高台には、屋敷林に囲まれた農家と畑が点在し、住宅がまばらに存在する準農村地帯でした。
昭和10年頃からは、西武線沿線の新興住宅地として宅地化が進み、陸海軍の軍人、大学教授、音楽家、画家、作家、棋士などが移り住み、西武線沿線の中でも一等地として高く評価されるようになりました。
準農村地域から本格的な住宅地へと大きく変貌し始めたのは、昭和36年から40年にかけて、妙正寺川流域の水田に集合住宅が建設されてからのことです。
当時、妙正寺川はまだ河川改修が行われておらず、しばしば氾濫していましたが、昭和38年の大水害を契機に、当時の鷺宮二丁目町会長であった塩澤俊一氏の政治的手腕によって治水工事が実現しました。
昭和38年1月、東京オリンピック前年には、塩澤氏の後任として菊田好男氏が町会長に就任。大福帳式の会計記録を改善し、会計帳簿の透明性を高めるなど町会運営の近代化に尽力されました。
昭和47年には菊田氏の後任として塩澤章氏が町会長に就任し、約20年にわたり町会長職を務められました。
平成5年3月、塩澤氏の後を受けて内田悦夫氏が町会長に就任。平成8年12月26日には、当町会が「地縁団体 中野区白鷺町会」として法人認可を受け、正式名称が「法人 中野区白鷺町会」となりました。
法人化に伴い、従来の町会規約や決算書類の見直し、総会のあり方の整備を実施。また、町会運営に必要な書類の作成を正確かつ迅速に行うため、パソコンを導入するなど、運営体制の強化が図られました。
平成12年11月には、かねてより菊田好男氏より借地し町会事務所を設けていた土地を、同氏より正式に譲り受け、町会の所有財産としました。
平成15年5月、健康上の理由により内田氏は相談役に退き、榎本悳三氏が後任として町会長に就任されました。
この頃になると、中野区役所の組織改革により地域活動は「地域活動運営委員会」による自主的な運営へと移行し、当町会もその協力体制を築き、実現に努力してきました。
また、地域の支え合いネットワークの推進など、区民の自主的活動を重視する方針が打ち出され、各町会への負担も大きくなりました。
そのような中でも、鷺宮地域の都市化は急速に進行。平成25年2月時点で、約2,300世帯・約5,000人が暮らす住宅地となりました。一方で、住民の高齢化と世代交代が進み、土地の細分化や集合住宅の増加により他地域からの転入者も増え、かつての地域住民間の連帯意識が徐々に希薄になりつつあります。
平成21年5月、榎本氏は体調不良のため相談役に就任し、林孝夫氏が町会長に就任されました。
平成23年10月28日には、白鷺町会の新会館「白鷺町会ふれあい館」が落成。この会館は、耐震構造と多目的機能を備えた、安全・安心なまちづくりの拠点として、自己資金と中野区からの助成を受けて建設されたものです。
会館の有効活用を目的に、貸出やイベント企画を行う「ふれあい館運営委員会」も設立され、開館から約2年で予想を超える利用実績と好評を得ました。
平成25年5月、林氏が健康上の理由で相談役に退き、後任として髙橋洋雄氏が町会長に就任されました。
東日本大震災以降、防災意識が高まる中、当町会でも防災普及・啓発活動に積極的に取り組み、美しく清潔なまちづくり、安心して暮らせる環境、さらに文化の香りに満ちたゆとりあるまちを目指し、町民の皆さまの協力のもと活動を推進してまいりました。
令和3年には髙橋氏が相談役に就任し、後任として大津勉氏が町会長に就任。就任後まもなく新型コロナウイルス感染症の流行により、病院は感染者で溢れ、マスクやトイレットペーパーなどが店頭から消え、オリンピックは延期されるなど、2度の緊急事態宣言が発令される事態となり、町会運営にも大きな困難が生じました。
そのような中でも、情報伝達の円滑化を図るため町会ホームページの活用を進め、役員間の意思疎通をスムーズに行うためにグループLINEを導入するなど、時代に即したデジタル化へ一歩を踏み出しました。
令和7年6月、大津勉氏が一身上の都合により退任され、後任として中橋学氏が第13代町会長に就任。現在に至ります。

歴代町会長

  • 初代 成合 勇
  • 二代 福永 覚三郎
  • 三代 武田 某
  • 四代 佐々木 孝之助
  • 五代 塩澤 俊一
  • 六代 菊田 好男
  • 七代 塩澤 章
  • 八代 内田 悦夫
  • 九代 榎本 悳三
  • 十代 林 孝夫
  • 十一代 髙橋 洋雄
  • 十二代 大津 勉
  • 十三代 中橋 学